<父権的ユダヤの一神教>
ユダヤ教とキリスト教
後にユダヤ教と呼ばれるようになる信仰は、宇宙創造主であるヤハウェという唯一神を奉じるイスラエル民族の信仰です。
ユダヤ教では、イスラエル民族は天の唯一神ヤハウェに選ばれて契約を結んだ特別な民族であり、神の教え(律法や戒律など)を実践していれば、やがてメシア(救世主)が現れて民を苦しみから救済し、神の国が実現するとしています。このメシアをイエス・キリストと考える人たちがユダヤ教から分かれてつくったのがキリスト教です。
神がイスラエルの民に約束したとされるカナンの地(現在のパレスチナ)には、紀元前3000年以上前から、生命の再生原理である地母神アナトと天候の神バァールの結婚によって豊穣を祈る女性性の農耕文明が栄えていました。
紀元前1300年頃にエジプトを出発したイスラエル民族がカナンの地に「帰還」する物語は、古代ギリシアと同様に、遊牧民による農耕文化の「征服」の物語です。けれどもイスラエルの民が農耕文化に同化していくにつれ、先住民のバァール信仰を受け入れるものが出てくるのは仕方のないことでした。
ただ唯一神ヤハウェ崇拝は多神教とは相容れません。自然はあくまでも神の被造物にすぎないとするヤハウェ信仰にとって、自然崇拝は嫌悪すべきものでしかなかったのです。『旧約聖書』にはバァール信仰への執拗な攻撃と、そのような異教に同化していくイスラエルの民を激しく糾弾し、何としても唯一神ヤハウェへの信仰を守ろうとする預言者たちの激しい闘いの様子が記されています。
自然崇拝を嫌悪したユダヤ教
『旧約聖書』の中の自然と女性
さて、ユダヤ教とキリスト教の共通の聖典である『旧約聖書』の「創世記」には、神の天地創造の物語が記されています。その中には人間による自然の支配と、男による女の支配を神が許したと解釈できる記述があります。これらの記述を通してユダヤ教の意識を見ていきましょう。
1:26
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人(man)を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」
自然と人(man)の関係
『旧約聖書』「創世記」
1:27
神は自分のかたちに人(man)を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された
1:28
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」
「これは、神によって特権的に創造された人間が自然を支配することを神が許したということである」として、ユダヤ・キリスト教の教えが今日の自然破壊の根源であると1967年に指摘したのがリン・ホワイトという歴史学者です。これはキリスト教世界に衝撃を与え賛否両論の大議論が巻き起こりました。現在では「神は人間による「支配」を許したのではなく、自然界を注意深く手入れ・管理する「番人」とした」とする見方に落ち着いているようです。
また現在のローマ教皇フランチェスコは環境問題解決のために積極的に動いている世界のリーダーの一人です。ローマ教会は12世紀にイタリアのアッシジに実在し、神の被造物として自然を賛美した聖フランチェスコ(→ ブラザーサン・シスタームーン)を1980年に「自然環境保護の聖人」に指定し、現在の教会の自然環境保護の立場を明らかにしています。
男と女の関係
2:22
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた
2:23
そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、 わたしの肉の肉。 男から取ったものだから、 これを女と名づけよう」
この「神は人(男・アダム)の伴侶とするために、アダムの肋骨から女(イブ)を創った」という記述は、人はもともと男として創られたこと、また女は二次的に創られたことを意味します。
そのあと有名な「エデンの園からの追放」の物語が続きますが、長いので要約しますと
神が創られたエデンの園で幸せに暮らしていたアダムとイブは、「善悪を知る木」の実だけは食べてはならないと言われていました。けれどもある日蛇にそそのかされたイブはアダムとともにその実を食べてしまいます。「善悪を知る木」の実を食べると二人は自分たちが裸であることを恥ずかしく思い、イチジクの葉をつづり合わせて腰に巻きます。それによって二人のしたことに気付いた神は怒り、蛇だけでなく二人に呪いをかけます。つまり女は苦しんで子を産み、夫に支配されること、男は生きるために重い労働をして食べ物を得ることを。そして二人をエデンの園から追放したのです。