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<生命の視点の欠如>

「男性性」への偏りは「生命の視点の欠如」という形でも現れています。自然と調和しようとするのは「女性性」です。一方、自然に反してでも自己を主張し自立しようとするのは「男性性」です。現在の生態系の危機の根底には、自然を超越し、自然をコントロールしようとする強い「男性性」の意識があります。

言うまでもなく、生態系は生命のネットワークです。そして水・大気・大地を介していのちの営みを繰り返しています。各生命体は、人間はもちろん動植物から微生物にいたるまで、地球という星の上で存在するために環境に応じて自己修正し、周囲の生命体たちと競争(男性性)、あるいは助け合って(女性性)生存してきました。自然は生きているのです。

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ところが16世紀の科学革命以来、近代科学は自然(生態系)を一定の法則で動く機械とみなすようになりました。そして生態系の構成物は動物であれ植物であれ、自分の意思や自律性をもたない機械のパーツの寄せ集めと考えるようになったのです。ですから、科学の目的は機械のパーツを動かす法則を見つけることになりました。

様々な装置によって自然を「量的」に分析し、そこに法則を見い出した近代科学は、機械である自然と生命を操作・利用することに もはや何の抵抗感ももたなくなりました。

 

人間は自然と切り離され、自然を「超越する(男性性)」存在となったのです。自然に対する畏敬の念も、人間は自然の一部という感覚も希薄になってしまいました。

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自然を、それ自身自律性をもつ「生きた」生命のネットワークと見る視点をもたないのは科学・技術だけではありません。近代経済学もまた同じ思想基盤をもとに発展してきました。このため経済の中に、人間や自然という生命の安寧や継続を図ろうという視点が存在しないのです。

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