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<近代経済理論と加速する男性性>

生命の視点・自然・女性のいない理論

15~17世紀の大航海時代がもたらした市場取引(貨幣による取引)の拡大に伴い、経済のメカニズムや運動法則の体系的分析を行う学問(経済学)も形成されていました。そして産業革命時には、誰もが参加できる「自由市場」や、市場における個人の自由な競争を重視する「自由放任主義」を軸にしたリベラル資本主義として理論化されます。

科学になろうとした経済学

近代化の中で形成された学問ですから、経済学も「科学」であろうとしました。その結果、人間が動かす現象を扱う学問でありながら、資本主義という経済学は数量化、定式化にこだわりました。このためその理論の前提には多くの無理がありました。たとえば

  • 市場の参加者はみな同じ情報や参加の機会をもっている(参加者は自由で、与えられた条件は平等)

  • 人間(ホモエコノミカス)は自分の欲望を最大化しようと行動する(利他的な行動はしない)

  • ホモエコノミカスは男でも女でもない(現実的には男性モデル)

 

このような市場も人間も実際には存在しません。けれどもそのように仮定することで、その後の経済理論は精緻化・定式化されていくのです。

 

ただし、人間が思いやり(女性性)をもたず自分の利益しか考えない利己的(男性性)一辺倒の存在と定義されたことは問題でした。資本主義に生きる人間はその前提に沿って生きるようになってしまうからです。

自然と女性、生命の視点が存在しない理論

男性性の科学を基盤とする資本主義経済の理論が自然と女性をその理論から除外したのは当然でした。経済学者の玉野井芳郎氏は、資本主義は自然を人間の経済活動から切り離してその外に置いたと述べています。理論の中で自然は「資源と原材料を提供し、廃棄物を捨てるところ」でしかないのです。

 

また資本主義の理論はモノを作って売る「市場経済」だけを見て、「市場外」の活動を無視しました。「市場外」の代表は自然と家庭です。

 

哲学者のイヴァン・イリイチは、資本主義の経済に組み込まれているにもかかわらず理論ではまったく触れられていない労働を「シャドーワーク」と呼びました。その代表が女性の家事労働です。そして女性を「シャドーワーク」にしばりつけ、考察の対象からはずしている資本主義の理論を批判しました。

 

また玉野井氏はこの「市場外」の世界こそ、生命をはぐくむ世界であると考えました。そして資本主義の理論は「生命世界である自然」から離れ、「生命のない」材料を使った工業的な世界を一般化した「非生命」の理論であると批判したのです。

性別役割分業

さらに女性研究者たちは、産業革命以降の資本主義社会が「性別役割分業」を前提としており、理論だけでなく実際面でも女性を経済活動から疎外してきたと批判しました。「性別役割分業」とは、男性は外での労働、女性は家で家事(労働者(夫)と将来の労働者(子ども)のケア)とするものです。

 

実は産業革命が始まった当初は、安い労働力として女性と子供も工場で使われていました。けれどもひどい労働環境のために病気やけがで死亡する者があまりに多く、その後は「女性は家で労働者を生産せよ」という「女性の家庭への囲い込み」が強力に推進されたのです。この「性別役割分業」がなければ当時の資本主義経済は成立しなかったとさえ言われます。そして男性の仕事は価値あるもの、女性の家事は女なら自然にできるあたりまえで価値のないもの、という格下げ意識も定着しました。家事は自然と同様、あって当然の無価値なものであるために経済理論の対象にならなかったのです。

  

資本主義経済の理論は今日に至るまで修正や派生を生んできましたが、生命の視点と女性性の欠如という基本は変わっていません。そして現在でも「新しい資本主義」や「持続可能な資本主義」などという言葉が流布されているのです。玉野井氏が言うように、資本主義の非生命性はそれを一部修正するようなことで変わるものではないのです。

加速する男性性

資本主義は19~20世紀にはマルクスによる科学的社会主義という挑戦を受けながらもそれを退け、20世紀後半からは新自由主義、グローバル経済、自由金融市場、効率化の強化、応用数学を用いた複雑な金融商品の開発など、拡大、競争、覇権、合理性、などの男性性を一層強めています。

 

強いものが生き残り世界を支配するという弱肉強食の経済に、他者との共存共栄や生命の安寧を図ろうとする女性性の視点はありません。あったとしても、その対策には技術革新という機械的な発想しか出てこないのです。自然(と女性)を考えない市場経済の拡大主義(経済成長)にとって、しょせん自然と女性はカネ儲けの対象かその手段でしかありません。

 

そしてそんな経済を支えているのが近代科学技術です。この世界の真実を探ろうという近代科学が生まれてすぐに、それが計量できないものを対象から外し、自然を単なる物質・機械とみなし、さらには細分化された分析手法に進んだことはお話ししました。様々な問題のあるスタートではありましたが、科学技術は資本主義経済をパートナーにすることによって、人間に膨大な物質的豊かさをもたらしました。そのために「科学技術ができないものはない」という科学技術絶対主義が強化されているように見えます。

 

今や科学は遺伝子工学と人工知能を使って人間と同等か、それ以上の人間をつくりだそうとする「ポスト・ヒューマン」や「トランス・ヒューマン」プロジェクトを進めています。それは、男性が近代を通してめざしてきた「科学技術による自然(生命)の征服」の完成であり、「生命は機械」であることの証明であるとも言えるでしょう。

 

哲学においても、魂(霊性)と肉体を切り離したデカルトから、魂(霊性)を心の働きに置き換えて霊性を排除したカント、そして「神は死んだ」と宣言したニーチェのニヒリズムに至ったように、生命と霊性をもたない唯物的世界観を拡大してきました。

 

この章では権力や軍事力という問題は取り上げませんでしたが、西洋近代の科学と経済が植民地政策や戦争という暴力と密接に結びついていたことは言うまでもありません。

 

これら男性性への極端な偏りが、現代の文明の特徴です。ただし男性性の意識がもたらした合理的な「知」が人類の財産であることに疑いはありません。問題なのは男性性の意識だけにとらわれていることなのです。

 

20世紀には確実に女性性への揺り戻しが始まっています。自然破壊と経済格差に代表される現代文明の危機に対処するために、男性性が生んだ素晴らしい成果と、自然と一体化し他者との共栄を求める女性性を統合することが求められています。両方のバランスと調和があってはじめて、地球上のすべての生命が輝く新しい文明ができあがるのではないでしょうか。

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