<大地の女神信仰から
天空の男神信仰へ>
母権制から父権制への転換
地母神信仰の時代
人類が農耕と海と山の恵みに絶対的に依存していた時代、人々は多産と豊穣を大地の女神に祈りました。地中海地域でも紀元前2000年頃には、各地に大地母神を崇拝する女性性の文明が栄えていました。
後のギリシア神話に登場するゼウスの妻ヘラや、アルテミス、アフロディテなどの女神たちも、もとをたどれば地中海沿岸あるいは地中海の島々で信仰されていた古い地母神です。(→ ギリシア神話と地母神たち)
地母神を崇拝する女性性の社会では女性が尊重され、女性が社会の重要な決定を行う母権制や、子どもが母親の系統を継ぐ母系社会も発達していました。また地母神崇拝は自然の動植物を寿ぐアニミズム的な崇拝でもありました。
クレタ島発祥のミノア文明(紀元前2000年~1400年頃)のクノッソス宮殿の壁画には多くの海洋生物が描かれ、当時の豊かな海と生命への賛歌が聞こえてきます。また小アジア(トルコの地中海沿岸地域)にあるエフェソスの地母神アルテミスの像は、多くの乳房をもち、その頭部とスカートには多様な生物がびっしりと彫られています。
クノッソス宮殿の壁画
地母神アルテミス像 エフェソス博物館 ⇒
狩猟民族(原ギリシア人)の侵入
けれどもそこに、紀元前2000年頃からインド・ヨーロッパ語族に属する戦闘的な狩猟民族(原ギリシア人)が侵入するようになります。彼らは鉄器、馬、戦車を持つ武力集団。雷神である男性神ゼウスを崇拝していました。彼らは千年以上にわたって波状的に侵入し、地中海沿岸に栄えていた女性性の文明を次々に破壊、征服して定住します。ミノア文明も紀元前1400年頃には滅亡してしまいます。
環境考古学者の安田喜憲氏は、アニミズム的な地母神信仰の崩壊は周辺の自然環境にも影響を与えたと述べています。狩猟民族である原ギリシア人が支配するようになって以降、地母神信仰の時代には守られていた森林が牧畜や交易のために切り倒され、その後さらにキリスト教が広がると地中海沿岸の森林は壊滅状態になったというのです。青い海に白い地肌がまぶしいギリシアですが、地母神時代は緑に覆われ、そのためエーゲ海の生態系は今より豊かだったということです。
さて、同族ごとに征服都市をつくっていた原ギリシア人は戦闘による勢力争いを繰り広げますが、紀元前800年頃にはスパルタ、コリントス、アテナイなど、多数のポリス(都市国家)による黄金時代を迎えます。
地中海での商業貿易から得る大きな利益を背景に、ポリスではすぐれた文化や芸術が生み出されます。なかでもソクラテスやプラトン、アリストテレスをはじめとする多くの思想家が生まれ、後の時代まで影響を与えることになります。
家父長制の確立
ただし武力がものをいう世界で女性が尊重されることはありません。戦闘が激しかった時代、女性は単なる戦利品か奴隷でしかありませんでした。軍事共同体であるポリスで重視されるのは、死を恐れない勇気やたくましさ。社会制度は完全に父権制に変わります。ポリスの支配階級である「市民」に属する女性たちであっても貞淑な妻・娘であることが求められ、家から出る自由もほとんどなかったのです。
女性を蔑視する社会通念は、当然この時代に生まれた思想家たちにも影響を与えています。たとえばプラトンは、「女というものは非力なために陰険な連中(『法律』)」と言っていますし、アリストテレスは、「女は半人間」、「男は優位であって支配する者、女は劣等であって支配されるべき者(『政治学』)」とまで言っています。彼らの哲学にはこうした女性に対する偏見が織り込まれているのです。
こうしてギリシアと小アジアに栄えた温和で平和的な大地の女神の文明は、軍事的で好戦的な天空の男神を頂点とする文明に取って代わられ、それはその後地中海全域を手中に収めたローマ帝国へと引き継がれます。