『科学者はなぜ神を信じるのか』
更新日:2022年1月29日

これは三田一郎という名古屋大学の名誉教授(専門は素粒子物理学)が書いた本のタイトルです。この方は一流の科学者である一方でカトリックの聖職者でもある、という異色のプロフィールをおもちです。
三田さんはある講演会で「科学によって宇宙の始まりや物質の始まりを少し理解したら、同時に、いままで気づかなかった疑問が湧いてくる。人間には神の業を完全に理解することはできない」と言った時に、高校生に「先生は科学者なのに、科学の話のなかで神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と言われたのだそうです。そこで自分にとって科学者であることと神を信じることは矛盾しないことを説明したいと思ってこの本を書いたということです。
科学と神の対立
実は私も、科学は神の領域を侵食するもの、両者は対立するもの、というイメージをもっていました。

事実、16世紀の科学革命以降、近代科学は様々な「なぜ?どうして?」を解き明かすことで、それまでは神のなせる業としか言えなかったことを理論によって説明できるようにしてきました。今や科学(特に物理学)は、宇宙はどうして創られたのか、物質はいかにしてできたのか、などの究極の問いをも解き明かそうとする段階に入っているそうです。人類が長いあいだ万物の創造主と考えてきた「神」の存在が科学によって完全否定される日は近いのかもしれないということです。まさに「科学にできないことはない。神はいない」と思っても無理はないでしょう。
それなのになぜ、物理学の最先端にいる科学者が神を信じるのでしょうか。三田さんは、宇宙や物質の始まりを研究する物理学者や、生命の始まりを研究する生命科学などの科学者の多くが神を信じていると言います。国連のある調査では、過去300年間に大きな業績をあげた世界の科学者300人のうち、8~9割が神を信じていたということです。なぜなのでしょう?

その答えは冒頭の三田さんの言葉です。「なぜ?どうして?」を調べ、解き明かせば明かすほど、その奥にあるさらに高次の謎が立ち現れてくる。さらに解き明かした数々の数理的法則が、完璧なまでに統一がとれ調和している美しさに感嘆せずにはいられない。これらが偶然にできたはずがない。必ず「作り手」がいるはずだ、と。 超一流の科学者だからこそ到達し、その前では謙虚にならざるを得ないほどの存在。それは宗教を越えた根源の神とでも呼ぶべきものだという結論に至るのだそうです。先ごろ亡くなった分子生物学者で筑波大学名誉教授の村上和雄さんは、それを「サムシンググレート(偉大なる何者か)」と呼んでいました。超一流の科学者たちが到達し信じる神は、こうした存在なのです。
この本は主に、近代科学が発生した16世紀以降のコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ホーキングほか、偉大な科学者たちが神とどう向き合っていたのか(彼らにとって神の存在は重大事だったようです)を説明するだけでなく、彼らの研究と発見の内容をわかりやすく解説してくれていて、それだけでも十分面白いのです。物理学の素人の私でさえ、地球は動いている!という初歩的(?)な発見から宇宙の根源を解明しようとするまでに至った、偉人たちの知的な探求の軌跡を追体験しているような気になります(難しいところは読み飛ばしちゃいますが😅)。人間てスゴイ!と思いますよ。
絶対なるものの探究
何千年も前から人間は「なぜ?どうして?」を問い、この世界が動く仕組みを知ろうとしてきました。それは「絶対なるもの(神)」が創った絶対不変の法則を知ることでもありました。16世紀頃からヨーロッパで始まった科学革命は、この法則は数学で書かれていると信じ、観察と実験をして結果を数量的に法則化し、自然現象を説明しようとしました。
コペルニクスやニュートンなど、科学革命時の科学者たちは実験によって神の存在を否定しようとしたのではなく、むしろその逆に「愛する神を理解したい」という情熱によって動いていました。ですから、この世界は絶対者がつくった絶対不変の法則で成り立っていることをつゆほども疑わなかったのです。こうしてニュートンは「空間と時間は絶対不変であり、方程式によって万物の運動は予言(予測)できる」と考えるニュートン力学を完成させます。もちろん光も絶対不変のものでした。神業は計算できるものとなり、その後の科学技術の発達の礎になります。
ただ20世紀に入り、アインシュタインが相対性理論を発表したことを契機に、「空間」と「時間」でさえ絶対不変ではないことが明らかになってきました。「この世で絶対のものは光速だけ。時間は遅れるし、空間は歪んでいる。もはや聖書に記されているような絶対的な神が存在できる場所など、どこにもなくなってしまったと多くの人が感じたでしょう」と三田さんは書いています。事実、超一流の科学者は別として、一般人は科学の発達に祝杯を挙げ、神などいないし自然も人間がコントロールできるものという思いを強くしました。

それでもまだ光が残されていました。聖書には「神は光なり」と書かれているほどですから、光だけは絶対不変であるはずでした。
では光とは何か。詳細は本を読んで頂くこととして、最終的に光は(そして原子を構成する陽子、中性子、電子などのすべての粒子は)「波」(電磁波)と「粒」(光子)の両方の性質をもって変化するものであることが解明されました。
「絶対のもの(神と法則)」を知りたいという情熱が動かしてきた科学が、「この世界に絶対不変のものはない」という結果にたどりついたのでした😲
三田さんは、日本の学校では今でも物質の最小単位は原子であると教えているが、そうではないと書いています。つまり物質の成り立ちを知ろうと極微の世界まで切り込んでいったら、原子という堅いものに行き着いたのではなく、その先に、粒子たちが一瞬たりと止まらずに「波」や「粒」として動いている動的な世界が待っていたのです。それはものごとが一つには決まらないという世界でした。
量子力学と東洋思想

この量子力学の登場によって物理学は大きな飛躍をとげ、今や宇宙の始まりを解明しようとするまでになっているのです。興味深いのは、量子力学を確立する立役者になったボーアをはじめ何人もの科学者が東洋思想からヒントを得ていたことです。彼らは、量子力学が語る「波」と「粒」という二重性あるいは相補性をもつ世界像が、たとえば陰陽のような、相反する二つのエネルギーが互いに影響し合い入れ替わりながら世界をつくり動かしているという世界像に酷似していることに気づいたのです。
フリッチョフ・カプラという物理学者は、現代社会のすべてのシステムを量子力学に則った動的で、陰陽(女性性・男性性)のバランスがとれ、他との関係性の中に成り立つ、より包括的なものに変えなくては、環境問題をはじめとする数々の危機を解決することはできないと述べています。
このサイトとブログが訴える女性性と男性性のバランスを図るということも、量子力学の裏付けがあるのだと力づけられています。
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